アンナの書簡

前説:以下に訳出するのはアンナ・キングスフォードが英国心霊術協会会報『ライト』1882年3月号に投稿した書簡の全文である。当時心霊術主義者の間で転生論の是非をめぐって議論が分かれており、その状況に一石を投じる目的でキングスフォードが記したものである。本人が末尾に追記しているように、書簡の実質はそれ以前のプライベート・サークルで発表された小論であった。この間の事情はメイトランドの『アンナ・キングスフォードの生涯』下巻50頁に記されている。

 この書簡で注目すべきは、短い紙面のなかにカバラ的魂の構造論、万物照応論、神秘劇の世俗化とパントマイムの関係、タロット論、転生論と、のちに「黄金の夜明け」団にて展開される教義が多数含まれている点である。そしてこれがウェストコットやマサースが必ず読んでいたにちがいない「アンナの書簡」であることを思えば、実にGDはこの時点から始まったとも言えるであろうか。

 キングスフォードのタロット言及の部分には、首をひねられる向きもあろう。おそらく彼女が参考にしたタロットはゲーム用に特化したドイツ・デッキであったと思われる。小アルカナのコートカードのみを扱っているのは、世間向きに「小密儀」のみを明らかにするという姿勢のあらわれか。

 本文中のハーレクイン等のイラストは読者の便宜を図って小生が挿入したものであり、原文には存在しない。(E∴)

人間の構造

 魂の進歩がいかに行われるか、その方法論に関してずいぶんと誤解があるようです。またこの問題に関しては、心霊主義者たちが二陣営に分かれて熱い議論を戦わせているようです。そこでわたしは通例に反して古代の真の教義を要約し、一般の方々に供与したく思います。この問題はそれほど重要なものなのです。

 この教義は外的な「霊」や「支配霊」から憑依的に受け取ったものではなく、神的かつ内的な「霊」より授かったものです。この霊に関しては後にふれることにします。ほどなくわたしは、このようにして明かされた教義が新しいものではなく、ヘブライのカバラやヒンズー哲学に含まれていることを知りました。エジプトやギリシャの密儀にも明示されていたのです。人間は二重の存在であり、自らの内に天上人格と地上人格を有しています。内的人格すなわち天上人格も二重であり、魂と霊の二つから構成されています。外的人格も二重であり、地上にして儚いもの、その構成要素は肉体と星幽的“陰翳”です。魂と霊と肉体は、カバラではそれぞれ内側から「イェヒダー」(あるいはコクマー)、「ネシャマー」、「ルアク」(アニマ・ブルタ)と称され、ルアクの一番外側の陰翳部分が「ネフェシュ」と名づけられています。

 人間を構成する四要素は多様な象徴のもと、あらゆる聖典に見られます。創世記ではまず四つの川として寓意化されており、参入者にとってはその名前だけで十分に意味を汲み取れるのです。エゼキエル書とヨハネ黙示録では「四つの顔の生き物」として表されています。鷲は霊(イェヒダー)を、天使は魂(ネシャマー)を、獅子は星幽的あるいは俗世霊(ルアクとネフェシュ)を、そして牛は肉体を表しています。

 エジプトやギリシャの密儀では、これら四種は神聖劇のペルソナすなわち仮面として表現されるのです。こういった神聖劇は、参入儀式が行われる洞窟神殿にて上演されていました。いうまでもなく神聖劇は初期キリスト教の神秘劇の原型です。カトリック諸国では17世紀まで神秘劇が上演されていました。こういった神聖劇は、それがキリスト教であれ異教であれ、無言劇形式を取るのが常であり、「太陽の誕生」の祝祭の際に上演されました。この場合の太陽はミトラ、バッカス、キリスト、どれでも同じです。そして現代でも世俗化された形で神聖劇は続いているのです。クリスマスのパントマイムこそ世俗化しながら生き残った神聖劇であり、それでいて聖なる原型を驚くほど正確かつ詳細に保存しています。

 パントマイムの登場人物四名は、ハーレクイン(霊)、コロンバイン(魂)、クラウン(俗世霊)、パンタルーン(肉体)としておなじみです。後二者は外的地上的二重性を表しています。


ハーレクインとコロンバイン クラウン パンタルーン


 ハーレクインは古代の原型と同様、常に仮面をつけていて、ゆえに不可視にして名前を持たない存在と想定されています。かれの衣装はきらめくような色とりどりの代物で、天上の弓あるいは七神霊とその色合いを形式化したものといえましょう。かれはバトンあるいは杖を持っています。これは聖なるミトスの杖、神の意志と力の象徴です。この杖でハーレクインはあらゆる変身、変成を達成します。杖で叩くと物品は姿を変え、消えたり出現したりするのです。彼に出会う人間も思いのままに操られ、知覚を得たり失ったりします。ハーレクインの恋人はコロンバイン(すなわち鳩あるいは人間の魂)、離れられない同伴者です。彼女は美しく、儚く、ハーレクインの言うことならすべて従いますが、恋人の杖がなければ自分ではなんの不思議も引き起こません。ハーレクインは輝く者、すべてを貫く全能者です。コロンバインは忠実で愛らしい配偶者であり、彼のものであればこそ神的になれるのです。

 星幽ないし世俗霊はクラウンに象徴されます。かれは天上のペアとは違い、まったく物質的な特徴を持っています。かれは狡猾で抜け目なく、世故に長け、ユーモラスです。かれには霊的な部分も神的な部分もありません。変成の力もなく、企む陰謀はすべて低級な目的に供されます。簡単にいえば、クラウンは地上的精神を忠実に再現したものと言えましょう。かれ特有の色は赤、すなわちライオンの色であり、まさに彼の役目でもあります。この人格が腐れ縁ともいうべき相棒パンタルーンあるいは肉体を操っているのです。パンタルーンは常に老いぼれた愚かな弱者として描かれます。力もなければ洞察力もないという始末です。肉体は実のところ単なる奴隷であり、地上精神あるいは知性の玩具でしかないのです。ゆえに天上のカップルにしてみれば軽蔑の対象です。パンタルーンの仮面に隠された肉体は、脆弱な存在として描かれます。杖に支えられ、足を引きずり、いつもひどい目にあっています。かれはこの劇の愚者であり、一方クラウンすなわち世俗霊は道化師ないしトリックスターなのです。

 この四名が登場するパントマイムは神秘的な台詞ないし寓意で幕を開けます。ハーレクインとコロンバインすなわち神霊と魂がヒーローとヒロインとなる劇です。通例、かれらは王子と王女として表されます。お互いを思いやる愛情が、地獄の悪鬼や“悪い妖精”の怒りと嫉妬を呼ぶという筋書きです。かれらを待ち受ける試練は、まさに「密儀の試練」に他ならず、最後は結ばれて永遠の幸福を得るのです。それが「変貌のシーン」として昇華するわけで、これこそはすべての宗教的修行と教義の究極的目的すなわち「霊と花嫁の結婚」です。神秘劇ならば「聖なる黙示録」として知られる最終幕にあたります。

 もちろんパントマイムは最初から最後まで天文学的であり、十二宮を巡る太陽の運行を描いています。なればこそクリスマス・シーズンすなわち太陽運行の開始時期にのみ上演されると申せましょう。十二は太陽ないし男性の数であり、十三は月ないし女性周期の数です。エジプト起源の「タロット」においては、聖なる数は後者のほうとされています。十三はエジプト密儀の女神イシスの数でもあるからです。この「タロット」は現在、わたしたちの間ではカードゲームとして存続しています。その経緯はヴェヤン氏やエリファス・レヴィが明快に解説しています*。タロットは四スーツからなり、赤札2種、黒札2種となっています。赤は天上の二重性を、黒は地上のそれを表します。このうち、ダイヤが聖霊ないし小宇宙の霊、本質的に純粋な輝くものを象徴します。ハートは魂であり、熱望と愛と欲望の座にして、人間王国の女性要素です。剣ないしスペードは地上精神であり、機敏にして容赦ないあたりは、カバラ的象徴である獅子にふさわしいものです。人間精神は鋼鉄の刃のように、さまざまなものを分析し、詮索し、浸透し、攻撃するのです。最後のクラブは肉体です。牛に象徴されるように、大地にのみ関連するのであります。

*権威筋によれば、タロットはもともと56枚からなり、余分の4枚は「騎士」であったといいます。この騎士はキングとネイヴの間に入るネフェシュを表しています。通常の場合、ネフェシュはキングに含まれているのです。


 これら四スーツにはそれぞれ3枚の「コートカード」があります。正しい順番に並べると、クイーン、キング、ネイヴの3枚です。昨今の慣用表現のために前二者の順番は入れ替わってしまいました。クイーンはコロンバインすなわち魂です。キングは星幽的ライオンすなわち精神です。ネイヴは肉体です。しかし首座にしてアルファ・オメガたるものはエースすなわち原初霊です。このエースがすべてのトリックを引き受け、またウイーンとキングとネイヴを支配するのです。かれは数列の「最初」にして「最後」であり、その意志は至高、その優越は絶対です。

 各スートの数列は12であり、十二宮や太陽英雄ヘラクレスの十二難行に照応します。神秘言語にあっては、十二は再生の十二段階を表し、その王冠たる完成は「魂の十三番目の行」すなわち「神の子の結婚」となります。ゆえにエースに象徴される13は完全数であり、婚儀の宴は13名にて祝われるのです。すなわちこれ、キリストと十二使徒の数であります。

 エースはギリシャ語ではノウスと発音されます。この言葉はブリアンも説明しているように、ノエあるいはノアと同義なのです。すなわち箱舟=小宇宙の建造者です。ノアの三人の息子セム、ヤペテ、ハムは、それぞれ魂、精神、肉体の象徴です。これら三者のうち、もっとも祝福されているのはセムすなわち魂です。東方の主にして選ばれた民族の創始者です。精神としてのヤペテはヨーロッパ民族の父祖であり、知的文明と発明に秀でています。一方、肉体としてのハムは劣等民族に割り当てられます。「カナンは呪われよ」と神託が語ります、「かれはしもべたちのしもべとなるであろう」。ここにわたしたちはアダムに発せられた呪詛の反復を見るのです。事実、ハムはアダムの象徴でもあります。肉体は滅びる土くれにすぎず、霊と魂と精神のしもべでしかありません。ハムは父や兄弟たちによって支配され、動かされ、屈従させられます。ハムすなわち肉体が自ら招いたこの呪詛は、エデン寓意の再現に他ならず、聖なる密儀の物質化を示しています。換言すれば偶像崇拝の罪です。神霊すなわちノアの秘密は物質化と地上志向の司祭職によって汚され、野卑にして俗となり、嘲笑の対象となってしまいました。霊的真実は肉体的意味として曲解され、天界にのみ属していたものが偶像として表現され、肉体を与えられたあげくに地上的現象に堕してしまったのです。エジプトの象徴体系にあっては、ハム、カナン、そしてクラブという地上的生殖の紋章はこのような意味を有しています。

 さて、人間王国のふたつの二重性のうち、一方は移住的性質を有していて、他方は有していないのです。人間の肉体と星幽要素は誕生のたびに更新され、死亡のたびに旅立ちます。肉体は塵に帰り、星幽精神は功罪に応じて「サマーランド」に赴くか、あるいはタルタロスの暗い影の領域へと落ちていくのです。この「サマーランド」は神秘家が「低次のエデン」として知るものです。死後のルアク、あるいは善人の地上霊は、一生の記憶と情愛を保持したままこの場にとどまります。霊はこの場からいまだ体を持つ友人たちのサークルを訪問し、自分の身を明かし、愛しき人たちを抱擁します。星幽光の美しさと神聖さを語り、また星幽光でつくる自宅や庭園、宮殿、小川、動物の模様を語るのです。この地上霊は人格的存在であり、実際のところを言えば人間の外的自我、いまだ姓名を有する“I”にして“Me”と申せましょう。

 しかし小宇宙の本質というべき「魂と霊」が上記のような方法で地上に帰還することはまずないのです。そのような帰還が許可されるのは余程に特殊な目的が生じた稀有な事態のみでしょう。天上のペアは移行の炎を燃やし、その光でヒンズー教でいう“カルマ”を構成します。この天上の結びつきこそ人間の霊的人格であり、総計と申せましょう。世間一般でいう霊体は外見に過ぎないのです。この本質は神にして人であるがゆえ、基本として不滅、そして進歩します。死を経ても新たな形態を得て生を続けるのです。この内なる自我の名前はルアクのそれにあらず、神のみが知る名前です。いわゆるクリスチャン・ネームではなく、地上の家族が与えた名前でもありません。それは形態から形態へ、アヴァターからアヴァターへと移り、最終的にニルヴァーナを達成します。ゆえにバガバッド・ギータにも記してあるとおり、再誕の状況と条件は前世のカルマを表しているのです。

 ニルヴァーナは外的人格の消滅であり、内的人格の神化でもあります。存在は悪なりというのは真実ですが、それだけではありません。至高の邪悪とは、神の御胸に抱かれての滅定から逃避することです。それこそが聖人の果てない望みであるというのに。

 ゆえに、転生否定論者が好んで口にする「生まれ変わるという考えが気にいらない」とか「戻りたくない」とか「自分から戻ろうとは思わない」という台詞は、外的自己すなわちルアクの自我の台詞でしかないのです。満足すれば戻ってこないでしょう。かれは「サマーランド」、エリシウスの野、低次のエデンへ向かうのですから。

 しかしかれの内側、神的粒子は、福者の域に達しているのであれば、神的意志に従って存在を続け、ついには霊と魂の婚姻を成し遂げるでしょう。ことの成就がなれば、存在という悪から浄化され、究極存在という状態に入るのです。

 紙面の制約ゆえに、ヘブルであれヒンズーであれ聖典の引用個所の明示はあえて避けております。

 アンナ・キングスフォード(医博)

追伸:上記小論は内輪の集まりにて発表されたものでしたが、後日友人が『神智学徒』誌1881年10月号を郵送してくれました。わたしはこの号を読み損ねていたのです。この号には「オカルト真理の断片」と題される記事があり、その内容はわたしが独自に内的源泉から得ていた教えと同一です。聖書名詞のスペルに関しては、カトリック版聖書のそれに従っています。A.K.



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