西洋魔術では、聖守護天使というと「真の自己」のことであるとされています。この方面のスタンダードであるアブラメリン魔術では、この天使との接触を得たのち、各種悪霊をこき使うというコンセプトのもとに話が進みます。
しかし、考えてみれば、自分の真の自己は天使であるというのも図々しい前提でしょう。およそ天使とはかけ離れた存在かもしれないわけですし、それ以上に天使とはなんぞやという定義が必要でしょうな。
冷静に聖書を点検してみると、天使とは「一神教という絶対専制体制を護持するためのエリート軍団」です。出エジプト記ではすべての長子を殺戮してまわるし、ヨシュア記では軍事顧問として作戦立案にまで参加する。敵に対しては情け容赦なく皆殺し。
ゆえに現実世界で天使に一番近いものを捜すと、ナチスのSSでしょう。ろくなもんじゃありませんわ。
しかし、もしかしたらこれが結局正しいのかもしれない。真の自己はきわめて利己的であって、他者など踏み潰して一顧だにしない可能性がある。禅宗の格言にいわく、「祖仏トモニ殺ス」。修行の妨げになるものは親だろうが仏だろうが排除する。
結局、真の自己を根源的に求めるか、目標的に求めるかで解釈も変わってくるのでしょう。言い方を変えると、人間はもとは天使だったとするか、これから天使になるとするか、です。折衷的に元天使で今人間でこれから天使ということも言えるでしょうが。
クロウリーはアイワスという聖守護天使から『法の書』を授かり、その思想のもとに世界を善導する夢を抱いていました。この書物には「すべての男女は星である」という名言が記されており、実にすばらしい。
ただしクロウリーは、星にも一等星二等星とあって、自分は一等星であると確信していました。他は二等星かそれ以下と考えていたから問題だったのです。