カルト・サムライ




……200年におよぶ内戦の果てに、惑星オリアナは瀕死の状態にあった。地表上の植物はほぼ全滅し、大気汚染も深刻だった。ようやく危機を悟ったオリアナ人たちは、抗争に終止符を打つべく和平交渉を開始した。そして調停役に選ばれたのが銀河連邦のジャン・リュック・ピカード艦長とUSSエンタープライズ号である。保安警備担当のウォーフ中尉、参謀役としてカウンセラー・ディアナ・トロイを従え、ピカードはオリアナへと自らを転送するのであった……

 とまあ、1992年にローレル・K・ハミルトンが発表したスタートレック・ノベル『ナイトシェイド』は始まるのである。

 「かつて太陽系に存在した惑星オリアナ。道徳的堕落はこの惑星にて発生し、惑星自体を破滅へと導いたのである。オリアナは文明の絶頂にあり、住民は統一された帝国の民であった。この惑星にルシファーと呼ばれる最大の知性が生まれた。この知性は果てしなく発達をとげ、ついに理性と信仰の対立を見る高みにまで至った。そしてかれは自らの知性を中心として事物を判断するという誤った道を選択してしまったのだ。かくしてかれは宇宙の恩寵を失い、左道へと堕ちてしまった。宇宙に初めて生じた反作用の力ゆえに、オリアナには邪悪が出現した」

 1868年頃、オリアナの来歴を説く神々しい風貌の人物がいると想像していただきたい。場所はニューヨーク、そして聴衆のなかには小柄な日本人が数名ふくまれている。

 「オリアナの住民の半数はルシファーに従い、悪の道に走った。残り半分は善を保った。オリアナ人は二派に分裂した。善なる者たちは南半球に集い、悪なる者たちは北半球に残った。やがて悪陣営は善陣営にいくさを仕掛けた。惑星の均衡は破綻し、自転すら停止した。空は黄色い炎に包まれ、地表のあらゆる場所から紅蓮の炎が噴出した。惑星オリアナは崩壊し、善なる者たちは自らの神霊界へ転送された。悪なる者たちは炎の磁力球体へと凝固して最初の地獄を形成した。オリアナの衛星は軌道をはずれ、最終的にわれらの惑星の重力に捕らえられた。それが月である」

 この途方もない宇宙規模のファンタジーを語る人物はトマス・レイク・ハリスという宗教家である。その教えに耳を傾ける日本人たちは、のちに初代文部大臣となった森有礼、初代フランス公使となる鮫島尚信をふくむ薩摩武士たちである。歴史に詳しい読者ならご存知であろう。幕末、薩摩藩から極秘裏に欧州へと送られた秘密留学生たち。その一部はなぜかアメリカにてハリス率いるカルト教団「新生同朋会」に入り、奇怪な教義を叩き込まれていたのだ。



トマス・レイク・ハリス

米国の神秘主義者、詩人、宗教家、性愛哲学の布教者として有名、というよりも悪名高い。終末論、性愛論、集団結婚に集団労働を結合させたカルト教団の創立者である。

1823年5月25日、英国のバッキンガムシャーにてカルヴァン派の家庭に出生。幼少時に両親とともに米国に移住。長じてはユニヴァーサリスト・チャーチの説教師となるが、すぐにスウェーデンボルグに傾倒して、同じくスウェーデンボルグ系の心霊家アンドリュー・ジャクソン・デーヴィスと行動をともにするようなっている。

1850年頃、デーヴィスと袂を分かってニューヨークで独自の説教活動を開始し、またトランス状態で一連の神秘的詩作を行う。いともたやすく神と語らい、天使と交流するというハリスのもとには多くの信奉者が集うようになった。結果として1859年頃に宗教共同体「新生同朋会」Brotherhood of New Life が創立され、ハリスはいわば預言者と化したのである。

ハリスの思想はスウェーデンボルグの両性具有神崇拝に東洋的プラナの観念が奇妙に混合したものである。その思想の要点は以下のようなものであった。

 「神及び天使は本来両性具有の存在であり、人間が愛するべき対象は、男子にとっては天使の女性的部分、女性にとっては天使の男性的部分である。この天使を“相対” counterpart と称し、“相対”天使一名は二名の男女によって愛されるのである。二名の男女は同一の“相対”天使を愛するために結婚して、しかも純潔を守り通すことによって三位一体を完成させる。なお、神及び天使の愛は宇宙に満ち満ちていて、瞑想的呼吸を実践することで神の愛を得ることが出来る」

 結論として、両性具有神に思いを馳せ、神の愛を呼吸して全身に満たし、法悦に達するという修行が形成されたのである。この修行をハリスは内的呼吸「レスピレーション」と称している。またイエス・キリストはイエス/イエッサにしてクリストゥス/クリスタという両性併記名を与えられた。この発想を究極の美しさで描いたのが、やはりスウェーデンボルグにヒントを得たバルザックの小説『セラフィータ』(1835)であり、それを現実世界で実行したのがハリスであったといえよう。

 そしてハリスは事業家としても有能であった。ただし信者を無給で使役しているため、純粋な営利事業とはいいがたい。かれは広大な地所でブドウ栽培およびワイン醸造を行い、またホテルや飲食施設を経営していた。資本金は信者から入信時に「贈与」された私財である。

無論ワインが主要品目となるのは、それがキリストの血とされているからであり、当然ながらハリス・ブランドのワインは神気を凝縮した霊薬として販売された。その生産量はニューヨーク州ブロクトンのワイナリーで年産一万五千ガロン、カリフォルニア州サンタローザでは二万ガロンに達したという。

 この人物のもとに薩摩武士が集まるきっかけを作ったのは、当時の英国下院議員ローレンス・オリファントであった。


ローレンス・オリファント(1829-1888)

この人物は日本と縁が深い。1854年、25歳のときに英国の外交官エルギン卿の秘書となり、カナダ、アメリカとの通商条約交渉団の随員となる。1858年(安政五年)8月2日、日英修好通商条約締結のためにエルギン卿、長崎に上陸。海路下田に向い、幕府との交渉を開始する。オリファントはこの時の模様を逐一書き残していて、幕末外交資料として貴重である。

 1860年(万延元年)、オリファントは日本公使館の第一書記官に任命され、翌年に高輪の東禅寺に仮設された公使館に入ったが、ここで水戸浪士の襲撃を受けて斬られる。しかし、一命はとりとめ、直ちに帰国した。東禅寺襲撃の際は日本刀を振るうローニン相手に火掻き棒で奮戦し、その模様が新聞に絵入りで紹介されたため、内外で英雄視されている。

 この後、オリファントは下院議員となり、外交方面とりわけ東洋交渉を専門とするようになった。だが同時に1864年頃からトマス・レイク・ハリスにも傾倒するようになっていたのだ。そして数少ない親日家と見なされたオリファントのもとに、日本の秘密留学生が出入りする。オリファントは言葉巧みに留学生たちを説得し、片端からハリスのもとに送り込むようになった。

 








長澤鼎と新井奥邃

 ハリスのもとに送られたラストサムライたちを待ち受けていたものは、カルト教団につきものというべき無報酬の重労働であり、生活管理であり、洗脳であった。私物を没収され、外部との連絡を遮断され、昼は農場で働き、夜は灯火の下で聖書とハリスの著作を学ぶのである。その内容は冒頭に紹介した奇怪な宇宙論であり、性愛論であった。

 無論、幕末の俊英ともいうべき留学生たちである。欧米の宗教事情に暗く、ゆえにオリファントの口車に乗せられ、のこのこアメリカくんだりまで飛ばされたにせよ、ハリスの宗教が普通ではないことくらいすぐに気がついた。1868年には日本人の間で内紛が起こり、最終的に長澤鼎ひとりを残して全員が日本に帰国することになった。

 しかしこの時に帰国した森有礼は、それでもハリスの教義を日本に紹介する必要ありとの認識のもと、1871年に自分の代理として一人の日本人をアメリカに送り込んでいる。それが旧仙台藩士新井常之進、のちの新井奥邃であった。

 かくしてトマス・レイク・ハリスのもとには薩摩藩秘密留学生の長澤鼎、旧仙台藩士の新井奥邃という二名の日本人がとどまり、ニューヨーク州ブロクトン、エリー湖湖畔の教団施設にて信仰労働生活を送ることとなった。そしてこの二人は実に好対照というか水と油というか、その後の人生展開すらくっきりと明暗が分かれていくのである。

 まず長澤鼎(1852−1934)を見てみよう。先に述べたように、かれは薩摩藩の秘密留学生として若干13歳で渡英。そのままスコットランドの中学校で英語を学ぶが、オリファントの勧めで1867年には渡米。ブロクトンにておもにブドウ栽培とワイン醸造に従事。1875年、ハリスとともにカリフォルニア州サンタローザに移住し、さらにワイン醸造事業を推し進める。1892年にハリスがニューヨークへ戻ったのちもサンタローザにとどまり、事業を展開して成功をおさめる。地元日系人の出世頭と目されるようになり、「バロン・ナガサワ」、「カリフォルニアの葡萄王」と称される。1934年、82歳にて死去。

 新井奥邃(1846−1922)。仙台藩士の家に生まれ、藩校養賢堂に学ぶ。のちに江戸の昌平黌に留学するも戊辰戦争に従軍。さらに榎本武揚の幕府海軍に入り函館まで転戦。同地ではじめてロシア正教を知る。維新後は捕縛を恐れて友人宅にかくまわれていたが、この潜伏期間中にキリスト教信仰を深めている。やがて森有礼に見出され、1871年にアメリカのハリス教団に送り込まれる。教団ではおもにハリスの秘書として原稿を整理し、印刷出版に従事している。1875年、ハリスとともにサンタローザに移住してさらなる信仰労働生活を送る。1899年、実に28年余の教団生活ののちに日本に帰還。ほぼ無一文という身の上であったため、友人知人宅を転々とする。1903年、巣鴨に私塾「謙和舎」を開き、伝道生活に入る。1922年、77歳にて死去。

 長澤はハリスの事業を引き継いで成功をおさめたが、ハリスの信仰に関してはなにひとつ語らなかった。数回日本に帰国するも短期滞在のみであり、本拠はサンタローザであった。

 新井はハリスの信仰を引き継ぎ、生涯を貧のなかで過ごした。謙和舎には奥邃の無私無欲の人柄を慕う人が集い、幾多の奥邃語録が編まれていった。かれの塾に出入りした人間のなかには、内村鑑三や田中正造といった明治日本を代表するキリスト教関係者も見受けられる。

 しかし長澤と新井は28年間も同じ屋根の下に暮らしながら、両者ともほぼ相手を黙殺しているのだ。記録によれば長澤は新井に関して質問されても、「そんな人がいましたか」で済ませていたという。

 そもそもこの両名はまったく異なるルートでサンタローザにたどりついている。長澤は最年少の留学生だったために、言われるままにハリス教団に入ったにすぎない。この点、新井は信仰に目覚めて自ら志願してきたのである。教団の財務担当と教学担当が反目しあうのは世の常であり、この点ではカルト・サムライたちも例外ではなかったのであろう。かたや薩摩、かたや旧幕サイドの出身という事情も関係していたと思われる。

 1881年、両名にとってハリスの教えに疑念を抱かせるに十分な事件が発生している。かれらの教団入りの責任者ともいうべきローレンス・オリファントが突如としてハリス非難の声明を発表し、教団を離脱したのである。さらにオリファントは自らカルト教団を設立し、ハリスの「レスピレーション」をさらに性的方向に振った同時呼吸法「シンプニューマタ」なる修行法を開発して物議をかもしていた。

 オリファントの離反はハリスにとって痛手であり、さらには教義面での見直しも行われたようである。1880年代に入るとサンタローザの新生同胞会においても、それまでややもすれば観念的であった「相対天使との結婚」が現実味を帯びはじめ、ハリスの指名による信者同士の集団結婚が頻繁に行われるようになった。夫婦で入信する信者に対しては、まず夫を遠隔地の施設で労働させ、一人残る妻に「個別指導」を行うというのが常態であった。そこでいかなる教育が行われるにせよ、このいかにもカルトな展開に対して地元の新聞社のバッシングが始まり、ハリスと教団は白眼視されることとなった。

 1891年、ハリスは突如サンタローザを去り、ニューヨークに戻っている。地元メディアの追求および民事刑事の訴追を避けるための処置と見なされている。この時点でおそらく長澤と新井、二人の胸中にはなんらかの思案が生じたであろう。ハリスの指名によりサンタローザのワイン醸造所を任された長澤は、農園に日本人を雇い入れ、二人の甥を呼び寄せて農園経営に参画させている。見ようによってはハリス教団経営部門の私物化であろうが、ともかくもこの時点で長澤のワインはれっきとした事業となったのである。

 そして信仰の人である新井にとっては、長澤の事業熱はおよそ心地よいものではなく、ハリスの不在は自分の居場所の喪失にもつながったのであろう。1899年、実に28年の歳月のはてに新井奥邃は身ひとつで日本に戻った。かれがハリス教団に入った明治四年と、帰国したときの明治三十二年ではおよそ別世界だったはずである。すでに五十四歳、妻子なく、家もなく、親戚知人宅を転々とする生活が続いたのであり、新井は本物の浦島太郎、真正の隠者そのものであった。もちろん少年期から青年期まで学んだ漢学の素養があり、またハリスの秘書として多様な文献を踏破した英語力もある。新井の能力を惜しむ人の世話で明治女学校等にて教鞭をとる一方、私塾にて独自のキリスト教を講じるようになった。名誉欲など微塵もない人柄であり、一枚の写真も肖像画も残さぬまま隠棲し、1922年、巣鴨の謙和舎にて死去。享年77歳。

 長澤の人生は順風満帆である。農園からカルト色を消し、事業家として巨万の富を得ている。カリフォルニアの日系社会でも重鎮として奉られるようになった。ただしかれも生涯独身であった。このあたり、ハリスの思想が影響しているのかどうか。われわれの目には見えない天使を伴侶としていた可能性も捨てきれない。長澤は生涯ハリスの思想を語ることなく、1934年にサンタローザにて82歳の生涯を終えている。

 今となってはハリスの教義も断片的に興味本位で触れられるだけの存在となっている。冒頭に紹介したスタートレック・ノベルの設定に利用されるくらいである。長澤も新井も正直いって有名著名とはほど遠い。それでも両者からは、幕末から明治にかけて海外で活躍したラスト・サムライたちの気骨が感じられるのだ。ほとんどだまされた形で教団入りした長澤が最後までアメリカにとどまり、志願した新井は28年の歳月を経て帰国する。両者は水と油であり、おそらくいがみあっていたであろう。そしてかれらが主人として仰ぐはめになったハリスは名君とはいいがたい存在であった。しかし、そこはどちらもサムライである。「名君に忠義を尽くすは易し。暗君に尽くす忠義こそ有り難き」という武士道を貫き、あとは黙して語らないのであった。

(終)


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