序文


西洋秘教伝統としての隠れキリシタン



 私がこの問題を考えるに至ったきっかけは、マーガレット・マリーの『西欧の魔女宗』をめぐる論争であった。

 マリーは魔女術を「かつて西欧に普遍的に存在した多神教の組織的残存物」と定義して、大方の反発を買ったのである。

 大多数の学者はマリーの説を斥け、まともに受け取ったのはG・B・ガードナーだけという有様であった。

 ガードナーはマリーの説に触発され、自ら魔女術復興の先駆けとなった。マリー説を側面から支援するべくニューフォレスト地区での魔女術残存を演出し、魔女術本体の具現化にはリーランドやクロウリーといった他要素を利用している。かつて欧州全域に広まっていた魔女宗が、キリスト教の勃興のために迫害され、地下潜伏を余儀なくされていたのであって、20世紀となった現在、ふたたび日の目を見るという筋書きで各種出版活動を行った。

 現在、マリー説もガードナー論もそのまま受け取る人間は皆無である。魔女術関係者ですら眉に唾する始末であり、キリスト教伝播以前の多神教の存在およびその残存を認めはしても、「組織的残存」は有り得ないとする見解が主流といっていい。

 私がふと疑問に思ったのは、この「組織的残存」であり、また「地下潜伏」であった。

 日本においては、宗教的主流は仏教と神道であり、ともに本地垂迹説のもと、並行存続を可能として現在に至っている。仏教各派のうち、迫害された宗派はどれも宗教的非寛容を露骨に示すもの(日蓮宗)や、世俗の権力に真っ向から対立したもの(一部門徒宗)であって、少なくとも宗教的理由で迫害されたとはいえない。神道に至っては、自らの宗教性を意識することなく歴史のなかで惰眠をむさぼっていたかのような印象すら受ける。日本史には各種の名僧高僧が登場するが、高名な神主など聞いたことがないからである。

 日本において迫害される宗教は、他宗に非寛容かつ政治的に活発なものであって、この点で筆頭にあげられるべきはやはりキリスト教、とりわけローマ・カトリックであった。戦国時代に渡来したカトリックは、およそ90年間の活動ののち、弾圧され、隠れキリシタンとして地下潜伏した。

 さよう、隠れキリシタンこそ、マリーの唱える「かつて普遍的であった宗教が弾圧の果てに地下潜伏を余儀なくされた」宗教であったといえる。そして「潜伏期間中に多種多様な民俗や迷信と混交し、原型をとどめぬほど変容した」という点もあてはまる。

 さらにいえば、ローマ・カトリック自体もキリスト昇天後からコンスタンティヌス帝宣言までの300年間は迫害ゆえの地下潜伏経験があり、その期間中に他要素との混交と変容を生じている。これがいわゆるグノーシス現象である。

 ローマの国教と化してからのカトリックは、地下潜伏期間中に不本意ながら養ってしまった寄生虫の駆除に追われていたといえる。公会議を何度も開き、教義を決定し、正統と異端を明確にする必要があったのである。

 そして現在われわれがオカルティズムと称しているものは、その原型がグノーシス派にあるとする見解が提唱されている。とはいえ、1700年前の地下潜伏の結果生じたグノーシス現象の実体を把握することは非常に困難である。

 その点、隠れキリシタンの場合、せいぜい300年前の出来事であり、また江戸期の文化文明の成熟度から考慮しても、研究の際の原資料の正確性(注1)という点で信頼が置ける。少なくとも16〜7世紀の魔女裁判や中世の「黄金伝説」よりもずっとまともな記録が入手できるのである。

 要点をまとめると、隠れキリシタンは近世日本において生じたカトリックのグノーシス現象であり、その変容過程を研究することで西洋秘教伝統のメカニズムの一端が明らかになる。

 また、隠れキリシタン自体が西洋秘教伝統の一派であり、それ自体が研究の対象となるということである。


注1 魔女狩りとキリシタン弾圧は歴史の皮肉であろうかほぼ同時期に行われている。ただし魔女のほうは教会サイドが作り上げた「悪魔と契約して人類にあだをなす人間」という設定にそって告発を行っているため、その裁判資料も、あるいは被告の自白も論理的に見てまったく無価値である。すなわち教会サイドの規定による魔女など存在しないのであって、その魔女として告発された人間が実際に魔女である可能性はゼロである。告白などは拷問の結果得られたものであるから無視してよい。マーガレット・マリーの最大のミスは、魔女の実態を類推するにあたって魔女でない人間の言葉を採用したことである。
 キリシタンの場合は事情が異なる。まず、魔女とはちがい、キリシタンはまちがいなく実在したのであり、さらにはキリシタンとして告発され逮捕された人間は間違いなくキリシタンであった。「踏絵」というキリシタン鑑定法は、キリシタンでない人間には簡単かつ公平なものであり、自分がキリシタンではないと確実に証明できるのである。踏絵はキリシタンでありながら絵を踏んで逃げてしまう人間を無数に生んだであろうが、それは大目に見るのであって、絵すら踏めないキリシタンのみを捕縛の対象としている点で、魔女裁判に較べれば人道的といってもよいかもしれない。



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