江口之隆

魔道をゆく

倫敦のみち

 [作者注 のっけから司馬遼太郎のぱくりである。この稿はロンドン滞在中に記されたもので、M誌あたりに売り込むつもりであったのだが、結局お蔵入りとなった。今回は当時の原稿に新たに加筆して、ネット上で公開する。]

 わたしがロンドンという街を意識するようになったのは、一冊の本がきっかけだった。『チャリングクロス街84番地』というその書物は、ヘレーン・ハンフという米国人女性が25年に渡ってロンドンの古書店と交わした書簡をまとめたもので、当時ベストセラーとなった。中学生だったわたしは、なぜかこの本に惹かれたのである。のちに映画化までされたが、わたしは観ていない。

 前回のロンドン行(1978年)では、問題の古書店マークス社はすでに廃業していたが、看板は残っていた。

 今回(1984年)になると、跡地にドラッグストアが建っており、情緒もなにもあったものではない。
 
 ロンドンという街は、所有格をつけて語るにふさわしい。漱石のロンドン。ホームズのロンドン。わたしにとっては、黄金の夜明けのロンドンである。
 
 都市というものを語る場合、わたしは妖怪変化や怪物を用いる。

 東京はモスラが羽化し、ゴジラが暴れる街である。

 ニューヨークはキングコングが挫折する街である。

 パリは妖怪ですら恋をする街である。

 ところでロンドンはドラキュラや切り裂きジャック、ピーター・パンやメアリー・ポピンズが暗躍する街である。それぞれ出没区域すら指定されており、妖怪変化ですら階級意識が濃厚である。巨大なエネルギーを発散させず、おのずと分をわきまえ、しかるべく分類されてしまう。ロンドンという街が妖怪をコレクションしているといっていい。

 ゴジラやキングコングのように周囲との調和を破壊する怪物は招待されない。それはあたかも、趣味のよい骨董品で統一された書斎に前衛美術を持ちこむような所業だからである。

 コンスタブルの風景画を南側の壁に配し、オーク材でしつらえた書棚にはグロリア装丁の詩文集を並べ、ジョージ朝様式の文机にはさりげなく海泡石のパイプを置く。それも使いこんで瑪瑙色と化した海泡石でなければいけない。きらめく新品は下品であって、決して許されない。

 ゆえにドラキュラ伯爵はカーファックスに居を構え、中流階級の男女を襲う。外国の爵位なんぞは英国では中流程度にしか換算されないのであり、英国貴族を襲うなどという僭越な真似はしないのだ。英国貴族を襲うのは先祖の亡霊すなわち英国貴族の役目である。

 このような街に紛れ込んだ漱石が、その鋭敏な神経で、自分が雨に濡れてふるえているむく犬の如き憐憫の対象にされていることを嗅ぎ取ったのは当然である。
 
 さて漱石から80年後にロンドンに紛れ込んだわたしは、ロンドン大学ウォーバーグ研究所で黄金の夜明け団の調査を試みることになる。やはり捨て犬のように親切にしてもらえるだろうか、心もとない。



 わたしは恩師のK教授から、ウォーバーグ所長のT博士の書簡を貰ってきていた。この書簡を所持する者に入所パスを与えるとのお墨付きである。

 K教授は中世英文学の研究者であられ、図像学の立場からウォーバーグ研究所とは懇意の間柄だった。わたしが魔術研究を行いたい旨を申し上げると、それはよいと快諾していただき、自ら研究所所長と交渉してくださったのだ。無論、教授はわたしがルネサンス期の魔術を研究すると思っておられたのであろう。知らぬが仏である。

 お墨付きは絶大なる効果を発揮した。受け付けのG夫人に渡すだけで、すぐに話がついた。
 わたしは招き入れられ、パスを与えられた。司書氏から図書館の利用法その他のガイダンスを受け、最後に質問された。すなわち、なんの研究に来たのか。

 ここで嘘をつくとあとあと尾を引くことはわかっていた。わたしは正直に、黄金の夜明け団だと申告した。

 一瞬、司書氏の顔色が変わったが、すぐに思い返したように、それならヨーク・コレクションを当たるとよいと言っていただいた。もちろん、こちらもその気である。


居住環境


 わたしはノッチングヒル地区にフラットを借りた。ポートベロ・ロードの中心から2ブロック入った場所だ。週70ポンドはきついが、やむをえまい。毎週土曜日になるとポートベロではアンティーク・マーケットが開かれる。ほぼガラクタばかりだが、なかには掘り出し物もあるという。古いタロットでもあれば購入したい。

 ここからウォーバーグに通うとなると、ノッチングヒル駅まで歩いてセントラル・ラインに乗り、トテナム・コート・ロード駅で下車。そのまま大英博物館横を通っていくのが一番となる。途中にはアトランティス書店もあるから好都合だ。

 大英博物館横の通りはガウアー・ストリートである。ここの76番地は昔スタンリー・ホテルといって、日本帝国海軍の定宿だったところだ。

 ロンドンに到着したばかりの漱石も、一旦ここに落ち着いている。ちなみに20ヤードほど離れた場所が99番地、ホロス夫妻がいんちき教団「神権会」を開いていた場所である。漱石が宿泊していた同時期、ホロス夫妻はいまだ逮捕されておらず、99番地で営業していた。漱石がホロス夫妻と路上ですれちがった可能性もある。

 アトランティス書店に関しては改めて話をしたい。この書店を攻略・落城させることも今回の主目的のひとつである。



知の第三極


 英国では知性はつねにケンブリッジとオクスフォードの占有物であった。この二大巨塔がそそり立つなか、第三極として1826年に創立されたのがユニヴァーシティー・コレッジすなわちロンドン大学である。基本的には非英国国教会教徒ゆえにオックスブリッジから締め出された学生のために有志が創立したもので、ゆえに宗教的寛容が学是となっている。

 無論、オックスブリッジからは一段も二段も格下と見なされたが、ヴィクトリア朝繁栄の中核的原動力である中産階級に実利的大学教育を与えた点で、功績比類なしといっていい。

 ウェストコットが医学を修めたのもロンドン大学医学部である。ミナ・ベルグソンとアニー・ホーニマンが机を並べたスレード美術学校は、1868年にユニヴァーシティー・コレッジの一角に開かれている。大学に行けなかったメイザースは、大英博物館図書室で独学に励んだ。

 黄金の夜明け団の主要メンバーの多くがこの一角で青春を送ったのであり、さらにいえば、かれらの心中にオックスブリッジに対する反発がなかったとはいえまい。後年、ケンブリッジを鼻にかけた若者クロウリーが嫌われる一因もここにあったのではないか。

 たとえば黄金の夜明け団にはロバート・フラッドに対する言及がない。偉大なる錬金術研究者エリアス・アシュモールも事実上無視されている。両名ともオクスフォードの出身であり、原稿資料の類はすべてオクスフォードが管理している。ウェストコットもメイザースも、オクスフォードには近づけないのだ。

 ジョン・ディーはケンブリッジの人間であるが、交霊術スキャンダルのために退学処分を受けたも同然であって、かれの文書その他は大英博物館スローン文庫に収められている。なればこそ黄金の夜明け団にも組み込み可能であった。

 黄金の夜明けに採用された象徴体系は、エジプト、カバラ、薔薇十字、タットワ、すべて外国起源といっていい。そのなかのどれも宗教的崇拝の対象ではなく、照応理論のもとに整然と配置されている。
 すなわち大英博物館である。こちらは産業革命を基点とする英国繁栄の象徴であり、意地の悪い見方をすれば、戦利品展示館なのである。戦利品は珍重こそすれ、崇拝の対象ではない。


アトランティス書店


 ミュージアム・ストリートに所在する世界的に有名なオカルト専門書店である。とはいえ、実際に行ってみると、意外なほどこじんまりとした店構えであり、拍子抜けすることおびただしい。店内に入っても、それほどの品揃えというわけでもないのだ。

 だからといって、なめてはいけない。この種の好事家向けのお店は、本当によいものは店頭に並べないのである。奥にしまってある逸品を売っていただくには、まずこちらの顔を覚えてもらい、裏を返してなじみになってと、それなりの段取りというものが必要なのだ。

 わたしは3日に1回というペースでアトランティスに顔を出した。本当は毎日でも顔を出せるのだが、それは避ける。行けば必ず何か買う。ときには大量に買い、日本まで郵送してもらう。

 こうやって顔と名前を覚えてもらう。ほぼ3ヶ月かかる。

 すると徐々にだが、お店の対応が変わってくるのである。たとえばわたしがエノキアン辞書を購入したとき、ついでにいかがと奥のほうからカソウボンの『ディー日記』が持ち出されてきた。無論、初版ではなく、アスキンの復刻版だが、これとて1000部限定で、そうそう手に入るものではない。125ポンドという結構なお値段だが、ここはありがとうと素直に購入するわけである。

 そろそろ頃合を見て、自分はこういう書物を探しているというリストを渡す。店のほうでも、了解しましたとなる。ここまでに費やした金銭は1000ポンドを越えた。
 店側のほうから、さりげなく質問が飛んでくるようになる。自分はウォーバーグでGDを調べていると答える。向こうは納得するという具合である。

 本当の逸品たとえばアグリッパの初版とか、あるいは本にすらなっていない書簡、原稿、文書の類となると、お店のほうとしても得体の知れない人間には売りたくないのである。生臭い話で恐縮だが、この種の逸品は利鞘も大きい。コレクターからコレクターへと移動する際には古書店が一枚噛みたいわけで、そのためにも所在を明らかにしておきたいのだ。もうこのあたりに来ると、京都界隈の茶人と道具屋の世界と変わらない。

 さいわいわたしは研究者であってコレクターではないから、アトランティス書店を攻略するだけで用は足りる。書簡、文書の類はウォーバーグで読めばよい。したがってとほうもない金銭を費やす必要はなかったが、それでも3000ポンドは遣ったのではないか。ウェストコットの『ベンバイン・タブレット』もアトランティスで売ってもらったし、クロウリーの『春秋分点』全10巻も特別にわけてもらったから、目的は達したといえる。『月の子』の初版、『777増補改訂版』の初版も買えた。

 日本に帰る前日、挨拶に行くと、あれこれお土産を貰った。しまいには「われわれは日本のマーケットに興味を持っている」などと妙な話にまで発展してしまった。日本人が全員わたしのような本の買い方をすると思ったら大間違いである。


日本幻影


 1980年代ともなれば、さすがに日本の実像も世界に広まっており、フジヤマ・ゲイシャガールといった神秘のイメージは消えうせている。ロンドンの電気店のウィンドウは日本製品であふれており、メイド・イン・ジャパンは高品質の代名詞となっている。

 わたしはバイクマニアでもあるから、ロンドンではBSAやトライアンフにノートンといった名車にお目にかかれると期待していたが、甘かった。街中を走るバイクは八割方日本車であり、残りの2割をハーレーとBMWが分け合っている。

 ロンドン大学の学生会館で隣り合わせた学生とバイク談義を交わしたが、かれはバイクのことを日本語でホンダというと信じ込んでおり、「おれのホンダはカワサキでよー」などと自慢していた。訂正してやらないのがわたしの流儀である。

 なるほど日本の実像が明らかになるのは結構だろうが、一抹の寂しさも感じてしまう。サムライ伝説、ゲイシャ伝説、荒唐無稽なミステリアス・ジャパンが人口に膾炙したのも、そのもととなる神話的人物や美女が存在したからであって、実像が明らかになることが必ずしもわが国にプラスになるとはいいきれない。

 サムライはともかく、ゲイシャ伝説のほうがわたしには興味深い。ただしゲイシャ伝説は、芸者と遊女の区別が厳密になされておらず、このあたりが混乱のはじまりだったようである。出島のオランダ商人たちがあれこれゲイシャ伝説を広めているのだが、かれらが接したのは丸山の遊女である。幕末に来日したオリファントやサトウになると、記述もやや正確となるが、逆にいえば正確であるがゆえに神話が生まれる余地がない。

 わたしはゲイシャ伝説の直接のきっかけとなったのは、明治時代の外務卿陸奥宗光伯爵の奥方、りゅう子夫人であると思っている。りゅう子夫人はもとをただすと新橋の小鈴ねえさん、本物の芸者さんだったのだ。

 りゅう子夫人は外交官の奥方という立場上、旦那と一緒に世界中をまわり、大使館主催のパーティーなどでは女主人をつとめている。ワシントンDCの社交界では、その美貌、個人的魅力、話術をもって第1等の貴婦人と謳われていて、しかもゲイシャガールなのである。

 考えてみれば、武家の子女も公卿の姫様も、西洋的パーティーではものの役に立つまい。なみいる貴顕名流の人士をさばきあしらう女主人など、幕末から明治にかけては芸者以外に適任者はいなかったのである。陸奥宗光はその点まで考慮に入れてりゅう子夫人を妻に迎えたのではないか。

 左はりゅう子夫人である。撮影されたのは1888年前後、陸奥宗光の駐米公使時代。鼻が低くて出っ歯でみっともない日本人というイメージを見事に払拭してくださるわけで、わたしはすっかりファンになってしまった。明治20年にこのモダンな雰囲気はどういうことであろうか。フロレンス・ファーやモード・ゴンといった黄金の夜明けの美女連も、りゅう子夫人に較べればすっかり霞んでしまう。
 
 もっともりゅう子夫人のファンはわたしだけではない。明治日本が生んだ最大の伝奇作家というべき押川春浪は、その奇想天外の小説「軍艦シリーズ」において

「絶世の女丈夫――二三年以前から欧羅巴の交際社会に、一人の花の如き日本美人が現れ、その名を龍子夫人と云って、才色の優れておるばかりではなく、任侠武勇の精神に富んでおるので、誰云うとなく、侠美人侠美人と云っている由」

と、まあ、こんな具合である。この侠美人は桃井男爵の夫人であり、「誠に絶世の佳人、風姿は月よりも清く、花よりも美わしく、加うるに天稟の才智と侠勇とは、虎の如き猛士もその前に頭を下げる程」とくる。

 ちなみに春浪の小説は明治中期の日本の青少年を鼓舞すること甚だしく、西洋列強を悪役とする今様水滸伝としかいいようがない。とりわけ露国の奸悪たるは云うに及ばず、東洋の一大武侠精神を以って白色人種の天狗の鼻を叩き折ってやらねばならぬ、といった文体で丁丁発止とやってくれる。

 春浪と同時期、英国ではライダー・ハガードが『ソロモン王の洞窟』で能天気なアフリカ探検を展開しているが、こちらのほうはグッド大佐の描写に見られる自己戯画精神もあり、肩肘張った春浪と較べれば、いわば余裕がある。やはり世界一の大英帝国と後発の途上国の差であろう。

 もっとも春浪のほうは、実際にあった畝傍艦(うねびかん)消失事件を土台として話を進めていくあたり、なかなかの腕を見せている。

 うねびは1886年にフランスで製造された3600トン余の巡洋艦であり、同年日本へ回航される途中、シンガポール出発を最後に乗員ともども消息を絶っている。まったくの行方不明となってしまい、翌1887年10月に沈没認定されたが、ちまたでは「露西亜艦隊による拿捕」説、「設計不備による沈没」説、「清国密偵による破壊工作」説等が飛び交い、帝都は騒然たるものであった。現在ならばUFOアブダクション説が唱えられたであろう。


 

ウォーバーグ瞥見



 さてウォーバーグ研究所にまんまと入りこんだわたしは、当然魔術研究を開始しなければならない。お目当てのヨーク・コレクションの件は後述するとして、まずは館内を探検することから始める。
 二階から三階にかけては公刊本を集めた書棚がずらりと並んでおり、それがまたはんぱな代物ではない。わたしはここではじめてC・F・ラッセルの『ズニスはズニーズ』を読むことができた。ラッセルはクロウリーの不肖の弟子を自認する面白い人物であり、セファルーのテレマ僧院でひともんちゃく起こしたあと米国に帰還、のちにGBGなる組織を開いたことでも知られる。
 ウォーバーグに収納されていた『ズニスはズニーズ』には見返しにラッセル自身の書き込みがあり、いわく「ジェラルド・ヨークの勧めにより寄贈する」という趣旨が述べられていた。実にヨーク大人の交際範囲は上はダライ・ラマから下はラッセルまで(失礼)多岐にわたるのである。

 ガースティンの『秘密の炎』などといった希書もあれば、まったく聞いたことのない魔術本(ドイツ語が多い)もある。頭がくらくらしそうな品揃えである。この研究所の地縛霊になりたい、と以前記したことがあるわたしだが、もはや本気でそう思ってしまう。ここにいれば最後の審判の日まで楽しめそうだ。
 
 わたしの目的はF・L・ガードナー文書の調査、クロウリーの『777』の原本(クロウリー自身の蔵書)のチェック、その他である。



幻燈


 今回のロンドン行にあたって、やはり写真も撮らねばとの決意から一眼レフを持ってきたが、これがとんだ誤算となった。ロンドンは高緯度にあるため、冬場になるとおそろしく暗いのである。具体的に言えば、ASA100でF1.7まで開いて60分の1秒しかとれない。この状況下でズームレンズなど使うと、手持ち8分の1秒という苛酷な撮影となってしまうのだ。

 しかもわたしはロンドンの猫を撮影テーマに決めていた。ストロボは使えない。三脚も不可。ひたすら手ブレとの戦いである。常用レンズは100ミリF2.5、もちろん常時解放のため被写界深度など無に等しい。この逆境下で写真を撮りつづけたことが、結果として技術向上につながったと思う。

 ロンドンのDPE店は値段が高く、おまけに下手である。ゆえにわたしは自分で現像する腹を固めた。常用フィルムはエクタクローム100に決め、E6現像キットを購入した。39度という高めの温度管理となるが、丁寧にやれば30分ほどで現像が完了する。

 ウォーバーグ研究所も土日は休みである。わたしは週末になるとカメラを片手に街に飛び出し、猫を中心に36枚撮影する。すぐさまフラットに帰還し、フィルムを現像すると、ライトボックスに載せてルーペでチェックを入れ、ふたたびエクタクロームを装填して街に飛び出すのであった。

 思えばカメラという道具も、魔術と錬金術の結晶なのである。暗箱の原理を発見したのが誰かは不明だが、デラ・ポルタはすでにこの技術を体得しており、遮蔽テントにわずかな穴を空けることで外界の景色の倒立映像をテント内に映し出すという見世物を披露している。貴族たちを真っ暗なテント内に入れ、しかるのちに外側でいろんな人物を踊らせると、テント内には逆立ちした魔物の映像が踊りくるうという算段であった。

 この映像を化学的に定着させる技術が登場するには、デラ・ポルタからさらに300年の歳月が必要であった。ヨウ化銀と臭素石灰を用いて銀板を作り、これを露光して水銀蒸気で現像、チオ硫酸カリウムで定着させるという工程は、まさに錬金術としかいいようがなかったであろう。

 19世紀中頃に登場したダゲレオタイプの写真は、一部の物好きおよび特権階級の娯楽でしかなかった。そのあまりに複雑かつ危険な化学処理も手伝い、到底庶民の道楽にはなりえなかったのである。

 その状況が一変するのが1888年、イーストマンの「コダック一号」の発売であった。“You push the button. We do the rest” の名キャッチフレーズとともに登場したこのカメラには、最初から100枚分のフィルムが装填してある。客は撮影を行ったあと、カメラごとイーストマン社にフィルムを送る。イーストマン社は現像と焼き付けを行い、再度フィルムを装填して客のもとに写真とカメラを送り返すのである。このシステムはいまでもコダクロームのなかに息づいているといっていい。

 そう、1888年である。黄金の夜明け団創立の年なのだ。この前後から、写真、自転車、旅行、実にさまざまな娯楽が庶民の手の届く範囲内に登場している。魔術やオカルトすら例外ではなかったといえよう。



筆者撮影 倫敦の猫


戻る