魔茶道入門

How to Perform Black Mass
( and rule the world !)


 小生、ことあるごとに近代魔術は一面において茶道に類似しておると述べております。

 まずは茶道。

 数奇者が階層を越えて集い、儀式を通じて親睦する。四畳半という狭い茶室に、にじり口なるこれまた狭い入り口から入りこみ、独自の儀式空間を形成する。伝統と格式にがんじがらめにされ、茶器の上げ下げにも注文がつくというややこしさ。覚えねばならない作法の数々、およそ日常的でない道具の数々。なにが偉いのかよくわからない家元、お師匠さま。

 しかし好きな人はこれが大好き。「お茶を飲むのにてまひまかけんてんじゃねーよ。コンビニで買って飲めばいーじゃん」などといった意見は一蹴されるのです。

 英国でこの種のメンタリティーを有する活動をさがすとなると、フリーメーソンリーが近いわけで。

 すなわち物好きが階層を越えて集合し、儀式を通じて親睦する。わけのわからぬ伝説に儀式を覚えて、石工でもない連中が職人の前掛けして楽しんでおります。フリーメーソンなんぞなにが面白いのかという意見もよく聞きますが、関係者は馬耳東風。

 で、このメーソンリーから近代魔術が生じておるといえるわけです。

 ここまでくれば、いっそ魔術と茶道には知られざる関係が存在するなどと妄想してみるのも一興か、と。



 茶道はもともと臨済禅の副課のようなものですな。室町前期あたりは将軍大名の書院でのたしなみとして伝えられ、それが村田珠光、武野紹鴎をへて千利休にいたり、わびさび等の美学を完成させた。同時に茶道は身分の垣根を取り除く手段でもあり、主人と客という形を取ることで大名と町人が対等に口をきくことができた。

 さて、戦国から安土桃山時代、身分の垣根がなくなる場所は二つしかないわけで、ひとつが茶室、あとはキリスト教教会なんですわ。

 教会では、神の前では万人が平等(というか罪人)であると問いており、大名も町人もいっさい区別せずに礼拝を行う。少なくとも建前はそうなっている。

 茶室では、茶を立てる主人とふるまわれる客という人間関係のみが存在する。この関係を神父と信者になぞらえてもよい。

 茶の背後には禅があり、ミサの背後にはカトリックがある。茶にしろミサにしろ、参加者はそれぞれ自らの性向に応じて形而上なり親睦なり好きに追求できる。これが流行しないわけがない。

 ちなみに最近、利休が定めたとされる茶道の式次第はカトリックのミサに由来するという説があり、かなりの信憑性をもって喧伝されておるのです。とりわけ袱紗さばきが聖餐杯にワインを注ぐ際の手順に酷似しているといいます。キリスト教教会でミサを見学した利休が司祭の身動きを参考にしたのではないか、ということで。

 これが事実とすれば、見方によれば茶道はミサのパロディーとなるわけです。そしてカトリックの立場としては、恣意的に改変されたミサはすべて異端であり、黒ミサなのですな。


 しかし悲しいかな、キリスト教も茶の湯も、ともに純粋な形ではいられなかった。教会は勢力拡大に腐心して権力者の猜疑を招き、やがて社会の敵という烙印を押されて弾圧されてしまう。茶の湯を茶道にまで高めた利休は、美の権力者として自我のインフレを起こし、およそわびさびとは程遠い世界を構築したあげくに破滅してしまう。徳川の幕藩体制が固まり、身分制の固定が国是となるや、茶道もまた越階機能を失って虚礼の集大成に堕してしまい、ふと気づけば家元を頂点とするピラミッド、プチ幕府となっていくのであります。



 この場でくだくだと歴史記述をやってもしょうがないので、本題に入りたく思うのです。

 ようするにこのところ、魔術の世界でも旧来の茶道的骨董趣味的オカルティズムが衰退し、かわりに効率的啓発を提唱する団体が急成長しております。それはそれでよいのですわ。元祖「黄金の夜明け」団とて、わけのわからない迷信の大集塊であった旧来的魔術に合理的象徴分類を導入し、学習をシステム化することで近代魔術をきりひらいたわけです。

 しかしバランス感覚のよい英国人は、GDのなかにも充分に骨董趣味を温存しておったのですな。団員は個人研究で「カルデアン・オラクル」や「スキピオの夢」を追求してもよいし、「エジプト魔術」を学んでもよかった。そういった個人研究は半年に一度のオフ会(春秋分点儀式ともいう)で発表され、出来のよいものは「飛翔する巻物」や団の副文書に組みこまれたのですわ。

 1897年、ウェストコットの退団により「黄金の夜明け」団から骨董路線が消えたとき、団の崩壊がはじまったといえるのですな。なるほど骨董路線は極度に保守的であり、反動にして虚飾でありましょうが、同時に美学と目利きの保持保存でもあるわけで。なにをもって美とするか、その意識は単に儀式の文言や小道具の塗装にとどまらず、団員としての出処進退、行動全般に及ぶのです。「そんなみっともないことはできない」という廉恥感覚は、修行結果としての魔術的上達にともなう「なにをしてもよい」という自我肥大感覚にとって充分な足かせとなる。美意識なきオカルトはもう最悪なのです。

 しかし手軽と便利を求める現代にあっては効率が最優先ですから、骨董趣味なんぞ完全に追放して効率のみを求める修行形態を採用する組織が増えておるようです。美意識なく自我のみが肥大した“魔術師”が世に送り出されるかと思うとぞっとしますな。

 そんなこんなで、茶道的オカルティズムの導入というか復活というかを提唱すべく、あれこれ記しておるのです。


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