タロット魔術の歴史


タイムライン

1396 フランス国王シャルル六世のためにカードが製作されるとの記述が当時の財務記録にある。
1415 ミラノ大公ヴィスコンティのためにタロットが製作される。
1550 この頃より木版刷り普及版が登場、カード賭博が全欧に広まる。
1590 天正かるたとして日本にまで到来する。
1781 クール・ド・ジェブランの『原始世界』刊行。「タロット=トートの書」説が世に出る。
1791 エッティラの『タロットの理論と実践』刊行。
1856 エリファス・レヴィの『高等魔術の教理と祭儀』刊行。「タロット=カバラの秘儀」説が提唱される。
1887 ウェストコットの『ベンボー枢機卿のイシス・タブレット』刊行。
1888 ウェストコットとマサースにより魔術結社「黄金の夜明け」団が創立される。タロット魔術の本格化。
1888 マサースの『タロット』刊行。
1896 ウェストコット編集によるレヴィの『神聖王国の魔術儀式』刊行。
1910 ウェイトの『タロット図解』刊行。いわゆるライダー版の登場。
1944 クロウリーの『トートの書』刊行。いわゆるトート・タロットの登場。

タロットの起源

 タロットの起源に関しては諸説が入り乱れているが、O∴H∴は「中世の祭壇画パネルが携帯用にカード化されたもの」という説を採用している。中世ヨーロッパには遍歴学生ないし偽神父と称される放浪者が存在しており、無資格ミサ等のいかさま稼業で世を渡っていた。なにせ一箇所に長居できないという事情もあり、祭壇や宗教画といった商売道具も簡素な携帯品に変化したのである。
 こういった祭壇画パネルが放浪者たちの世界で伝えられるうちに、占術用の小道具としても用いられるようになったと思われる。

 なおタロット TAROT なる言葉は、ドミニコ派祭壇画の形式である「神秘の輪」Rota Mystica が起源であろう。同会派では、イエス・キリストの生涯を連続画として描くにあたり、冒頭の一枚に聖人や預言者を並べた多重円を描くのである。


神秘の輪
外側の円には旧約に登場する十二名の人物が描かれている。上部中央がモーゼ。右回りにソロモン王、エゼキエル、エレミヤ、ミカ、ヨナ、ヨエル、マラキ、エズラ、ダニエル、イザヤ、ダビデ王。
内側の円には新約から八名の使徒が選択されている。上部中央がヨハネ。右回りにペテロ、マルコ、ユダ、ルカ、ヤコブ、マタイ、パウロ。
円外右側は時の教皇グレゴリウス、左側はエゼキエル。絵自体はエゼキエルが得たヴィジョンを描いたものである。

合計22名になる点が注目に値しよう。


 O∴H∴の見解としては、タロットはそれ自体キリスト教のシンボリズムから一歩も出ない存在であり、世俗の塵にまみれて変形した連続祭壇画であるとする。


 魔術との接点

 タロットは占術および賭博の道具として伝えられてきたが、魔術と接点を持つようになるのは近世に入ってからである。

 まず1781年、フランスの作家ド・ジェブランが『原始世界』なる著作において、いわゆる“タロット=トートの書”説を世に広めている。当時フランスではエジプトが一種の流行と化しており、多様な文物が輸入されていた。ド・ジェブランはタロットこそアレクサンドリア大図書館の焼失すら生き延びた伝説の魔法書であるとホラを吹きまくったのである。もちろん、この種の言辞はシャンポリオンが神聖文字を解読するまでの幕間狂言のようなものであった。

 1791年にはやはりフランス人の占い師エッティラが『トートの書の理論と実践』なる書物でタロット=エジプト起源説を披露し、この珍説はますます世に広まった。

 1856年、近世魔術師の筆頭たるエリファス・レヴィ(1810−1875)がその著書『高等魔術の教理と祭儀』においてタロットをカバラと結びつけている。すなわちこのとき、タロットと魔術が出会ったといえよう。レヴィ以前、いかにエッティラ等がタロットをトートの書と結びつけようとしたところで、肝心のトートの書やエジプト古代宗教の実態が不明であるため、ほぼ徒労が約束されている作業でもあった。

 無論、タロットとカバラの間にある共通点といえば、大アルカナが22枚、ヘブル語のアルファベットも22文字というこの一点のみといってよい。ただしカバラには『形成の書』と称する神秘文献があり、ここに生命の樹とその32の小径の占星術配属が記されている。この文献を土台にタロットにも占星術配属を持ちこんだとき、タロット魔術が生まれたのである。

 そして22枚あるタロットの大アルカナを生命の樹にいかに配置するかという点で大いに議論が分かれたのであり、さらには大アルカナの順番の変更というタロット史上の大事件にも発展するのであった。


 黄金の夜明け団とタロット

 レヴィが唱えた「タロット=カバラの秘儀」説を素直に継承し、かつ発展させたのは英国のオカルティストたちであった。とりわけカバラ研究者ウィリアム・ウィン・ウェストコット(1848−1925)はレヴィの記述をフォローする形の出版物をいくつも出している。『ベンボー枢機卿のイシス・タブレット』はレヴィの『魔術の歴史』に立脚するものであるし、『神聖王国の魔術儀式』はレヴィの未発表原稿を土台にタロット解釈を打ち出すものであった。

 このウェストコットが中心となって1888年に組織されたのが魔術結社「黄金の夜明け」団である。この団体はタロットの配属を決定し、さらにはタロットを用いる霊視までを行うようになった。20世紀に発表された主要なタロットとしては「ライダー」と「トート」があげられるが、どちらも「黄金の夜明け」団の団員が作成したものである。現行のタロットはほとんど「黄金の夜明け」団のシステムにそって考案されているのである。

 タロットの歴史を通覧した場合、14世紀から18世紀半ばまではイタリアが中心であり、以降19世紀半ばまではフランスが中心となっている。そして「黄金の夜明け」団の登場以降、現在に至るまでタロットは英米を中心に動いているといってよい。

 そもそも魔術師たちはなぜにこれほどタロットに夢中になったのか。実のところ、レヴィの登場以前、魔術は意外なほどヴィジュアル的に充実していない分野であったのだ。1801年に発表されたバーレットの『術士』を見ればわかるように、魔術関係の図版はどれも素朴な木版や図形の類であり、美麗な色彩など望むべくもなかった。かれらにとってタロットははじめて手にする魔術用絵画であり、自分勝手に改変することすら許されたのである。



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